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1.世界の鋳物の歴史

メソポタミアの南部に国家都市を建設したシュメール人は、人類最古の絵文字を粘土板に残していますが、そのなかに鍛冶工とか銅を意味する語があります。
この地方を流れるチグリス・ユーフラテス川の上流は古代の銅鉱石の産地であり、青銅製の武器や装飾品がシュメール国王たちの墓から出土していることからも、これが鋳物づくりのはじまりといえるでしょう。

ふいご(送風機構)が発明され、たとえばエジプト・テーベの墳墓から出土したパピルスには足踏みふいごでるつぼ内の銅を溶解し、かなり大きい扉を鋳造している状況が示されています。
その後、溶解炉の形状や送風機構も急速に改良され、鋳型も砂岩質の開放鋳型から、2個の鋳型を合わせてその隙間に溶湯を流し込む合わせ型、さらに中子を用いた中空鋳物の作製などの技術改良が加えらました。
鉄に関しては、金精錬の副産物として得られた鉄が用いられました。これは古代の砂金精錬で、砂金に含まれた砂鉄が還元集合してるつぼの中の溶けた金の上に集まったものが採取されました。
その後、磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱などの酸化鉄鉱の還元精錬が行われました。

台石上に鉱石と木炭を交互に積み上げたバッチ型式の炉を用い、炉底に溜まった海綿状の鉄を加熱と槌打ちして錬鉄を得ました。 このように鉄鉱石から錬鉄がつくられ、さらに浸炭焼入れなどの熱処理技術が開発されると、鉄は今までの銅や青銅よりはるかに優れた性質の合金として、急速に武器や農耕具などに利用されるようになりました。
一方、中国大陸ではかなり古くから鋳造鉄器が存在していました。紀元前770から前475年の春秋時代中期に鋳造鉄器を認め、紀元前475から前221年の戦国時代には鋳鉄製農具も広く普及していたのです。

2.日本の鋳物の歴史

日本に鋳物づくりの技が伝わったのは紀元前数百年ごろ。1世紀に入ると、銅鐸、銅鏡、刀剣などがつくられるようになり、奈良時代になると、仏像や梵鐘などが盛んにつくられました。各地に鋳物づくりが広がったのは、平安時代なかば以降といわれています。 江戸時代末期になって近代化への動きが活発になります。幕府はオランダから技術を導入してキュポラを建設しましたが、これが近代化へのさきがけとなりました。

3.愛媛の鋳物の歴史

愛媛では江戸時代「在方の鋳物師」として、西条藩の栗田家、松山藩の豊田家および井上家が知られています。これらの鋳物師は日常、家庭汁器、農器具、仏具および武器を生産し、幕末海上防備が叫ばれたときには大砲の鋳造をおこなってきました。栗田家は讃岐の辻村から移住してきました。また松山市石手寺には鉄燈籠の台座が残っており、箆押で「備後国三原之」「大工津 守真」と記されています。愛媛県の鋳物師は海路、瀬戸内海コースか、讃岐からの陸路のコースを経て、必要な時に招かれたのでしょう。東温市(旧温泉郡川内町)が発祥の地と考えられている「伊予釜」や幕末宇和島藩における鉄砲の製造など未だに明らかにされていない点も多く残っています。
明治になって、西条藩の栗田家は西条市丹原町に移り農機具を製造してきました。その後、新居浜市の住友鉱山の機械部門が独立し、住友重機械工業㈱が設立されました。今日の県内東予地区の工業地帯の中心と成るものでした。今治地区ではタオル織機と造船に素材を供給するための銑鉄鋳物業が発展していました。松山地区では井関農機に鋳物を供給するものと都市や家庭に必要な日用品を生産する銑鉄鋳物業が発展していました。
その後、自動車産業を筆頭に各種産業の発展とともに、愛媛県下の鋳物業は県内企業の受注に留まらず、全国各地の大手企業との取り引きを拡大し現在に至っています。
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